お父さん、単身生活を満喫でタグ「万葉集」が付けられているもの

皆さん、遅ればせですが明けましておめでとうございます。

今年の正月は英国に行くでもなく、単身赴任先の越前にくすぶっている予定でしたが、知人の新築祝いに駆けつけることになり、広島までのドライブができることになりました。

そこで、ドライブの経由地を「新しき年の初めの初春の今日降る雪のいやしけ吉事」で有名な因幡国庁跡に設定して、ここ数年では珍しい正月の雪を楽しむことにしました。
 日本の古典を読んでいたら、よく出会う表現に「袖を濡らす」がありますよね。源氏物語の「葵」にも後るる袖を思ひこそやれ先立たれなさってさぞかしお袖を濡らしてとお察しいたします)などという表現があるように、袖といえば涙で濡らすものと決まっているかのようです。私はどうもこの表現が性に合いません。潔癖症気味なのかもしれませんが、「涙と鼻水が混じってないか?」「濡れたらちゃんと洗濯しとるんかいな」みたいな思いのほうが強くて、風情を感じるまでに至らないんです。

 さて、こんな表現がいつから使われているのかと調べてみると、確かに万葉集にも出てきます。既に第四巻に恋しい思いで袖が乾かないという表現はでてきます。目に付くのは労働で袖が濡れるという表現ですね。その労働にも異性への感情が込められているようで、袖を濡らすというのは詩的表現であるということらしいです。

今年の春に、ブログのデータベースを不注意から古いものに戻してしまって、去年の10月から、今年の四月までのエントリーを失ってしまっていました。回復の努力をする気力を失っていたのですが、やっと取り掛かる気になって、一つずつ回復しています。
特に蒲生野の萬葉歌碑を回復できたのが嬉しくてやる気がでてきました。なんだか自分の過去を失ったような気がしていましたからね。

 昨日のドライブ報告、その1です。午前中に味真野(あじまの)に行きました。味真野は万葉集巻第15で中臣朝臣宅守と狭野弟上娘子の贈答歌で有名な歌枕なのですが、その後は全く無視されていて、当然、芭蕉翁も(単に知らなかったんでしょうが)無視して日野山だけを詠みちらして通り過ぎてしまいました。芭蕉は奥の細道を書く前に、かなり綿密に下調べして(行ったかどうかは別として)俳句にしていますから、江戸時代には万葉集はほとんど忘れられていたのでしょうね。(その後の万葉集見直しの機運については、興味を持って調べてみたいと思っています)
 その代わり、謡曲はかなり嗜まれていて「花筐(はながたみ)」で、継体天皇の物語が味真野を舞台として創作されたため、つい最近まで地元でも継体天皇がらみのものしかありませんでした。下の写真は味真野神社の入り口ですが、このとおり継体天皇のことしか書いてありません。

境内にあるのも「花筐」の石碑です。

境内から隣接地の野外ステージが見えますが、その向こうに万葉館があり、中臣朝臣宅守や狭野弟上娘子の贈答歌が紹介されています。内容は次回に。

万葉集は千数百年前の歌が記載されているのに対し、奄美歌掛けは六百年前ごろから始まったという。
 奄美では約六百年前から歌掛けが始まったようだ。月明かりの夜、ハブが出没する心配のない浜辺に集まり、車座になって、手拍子でリズムをとりながら歌を掛け合った。顔ぶれや雰囲気にあった歌詞をいかに作り、節に乗せることができるか。その即興の妙を競った。いわば歌遊びであり、言葉遊びでもあった。

 最近、万葉集の4000首以上の中から歌を探し出す作業をすることが多くて、テキストのデータをエディタで検索することも多かったのですが、それはやっぱりデータベースシステムに任すべきだろうと、システムを作りつつあります。
 既に一応出来上がったのですが、やはり正規表現かand検索、or検索ができるともっと使いやすいものになるでしょう。公開したいけど、もし大量のアクセスがあったら、PCのサーバだから停止するかもしれないな、何か手を考えないと・・・。
 現在のものでも、出力項目の選択ができたりとか、なかなか優れものになってます。どっかに源氏物語とかのデータもないかなあ。
私がはじめて額田王の次の歌を読んだとき、いっぺんで万葉集を好きになりました。

あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る(2)

 この歌を知るまで、私が諳んじていた額田王の歌は、「熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな(8)」だけだったので、命令口調のどちらかというと男性的な歌人だと思っていました。ところが、「あかねさす・・・」は、媚態をも感じる歌で、全く傾向が違います。興味を持って調べてみる気になりました。

 額田王は、実は出自はよくわかってなくて日本書紀巻第二十九に天武天皇即位の項に記載があります。それによると、9人ほどの正妃や夫人(おおとじ)の名前にならんで、鏡王(かがみのおおきみ)の女、額田姫王として登場、十市皇女(とうちのひめみこ)を生んだことのこと。彼女が蒲生野で歌を贈りあった相手の子供を若い頃に生んでいたということなんです。しかも、その相手は「紫のにほへる妹を憎くあらば人妻故に我れ恋ひめやも(21)」つまり、「あなたは人妻である」と答えているではありませんか。だったら、今は「誰の」妻なんだ。
 
 万葉集巻第一にある中大兄(天智天皇)に思わせぶりなこんな歌があります。
香具山は 畝傍を愛しと 耳成と 相争ひき 神代より かくにあるらし 古も しかにあれこそ うつせみも 妻を争ふらしき(13)

 これでは争われた妻は額田王だろうと思いたくなります。だったら、蒲生野にいる今は天智天皇の妻だということになるではありませんか。確かに蒲生野の薬猟は天智天皇の主催です。だからこそ、額田王は大津宮に住んで、蒲生野の大イベントへの参加は当然だということになります。
川の上のゆつ岩群に草生さず常にもがもな常処女(とこをとめ)にて(22
 蒲生野の贈答歌のすぐあとに掲載されている歌です、この歌で「常にもがも」と願い詠われた額田王の娘、十市皇女が蒲生野の薬猟の数年後には亡くなる運命だったとは、蒲生野では想像もしなかったでしょう。
 そういう人が昔の夫に、心底から詠みかけたのが「あかねさす・・・」であれば、それまでの彼女の人生はどうだったのか、想像するに余りあります。どうしても蒲生野というところに行ってみたくなり、万葉歌碑を訪ねてきました。そのときのエントリーも残しています。
 この歌の魅力は、額田王のそのときの感情だけではなく、このように運命も想像させて歌に触れるものを感動させることです。一方、本当に想像したとおりの人生だったら運命に翻弄され続けた彼女が可哀相すぎる。私は、彼女の人生はもっと違うものだったとは思えないのかとも考えるようになりました。

☆「宴会の歌」で気が楽に
 そこで、私が飛びついたのが「宴会での余興の歌」説。確かに、大イベントである薬猟の後には大宴会が催されている。相聞歌ではなく「雑歌」であり、公式歌らしい。天智天皇の後室にあったことの証拠はなにもない。となると、ちょっと気が楽になったというのが偽らざるところです。歌の解釈としては、男女の恋愛感情を詠っているといって間違いないでしょうが、歌は事実がないと詠えないものではないでしょうから、うん、本当は額田王は平穏にな安らかに、歌の才能を生かして幸せな人生を生きたんだ。
ついでなんですが、どうも私が諳んじていた「熟田津に」は、万葉集の佐注を素直に読むと、斉明天皇の御製ですね。額田王シャーマン説まで出てますが、あまりにこじつけが過ぎると思います。
 私が普段に見ている新書本二つが、この歌について解説しているのを見ると、戦前の歌人である斎藤さんは、特に強く思いいれが強いようですね。割いた字数が全く違うのがよくわかります。特に斎藤さんは大海人皇子の持ち上げ方が過ぎるのはちょっとご愛嬌かな。

☆中西進さんの解説

【額田王の歌について】
  •  天智天皇が蒲生野(かもうの)に遊猟(みかり)したときに、額田王のつくった歌と、それに対して皇太子(ひつぎのみこ)の答えて詠んだ歌である。
  •  天智天皇は称制七年目の六六八年に即位し、弟大海人(のちの天武天皇)を皇太子とした。その年の五月五日蒲生野に薬狩を催す。薬狩とは、鹿茸という鹿の若角(袋角)や薬草をとる行事で、推古女帝のときに二度行われたまま、絶えていたものであった。
  •  大海人は、紫野を行き、標野を行き、袖を振った。袖振る行為は恋人同士のものであるのに。「紫野行き標野行き」というくりかえしには、遠ざかりゆく進行の効果と、禁入地区であることの強調がある。「野守」には、野の管理人、当日の廷臣、そして天智が含まれていよう。
  • そのなかでの袖振りは、大胆で鮮烈で、とがめる額田の心のときめきも、いっそう大きくなる。


【大海人皇子の歌について】
  •  その返歌は「憎くあらば」と反対を仮定し、「恋ひめやも」と反語で打ち消すという手のこんだ歌で、聞き手の心理的反応を確かめながらの、口誦歌ならではの表現である。

☆斎藤茂吉さんの解説

【額田王の歌について】
  •  天智天皇が近江の蒲生野に遊猟(薬猟)したもうた時(天皇七年五月五日)、皇太子(大皇弟、大海人皇子)諸王・内臣・群臣が皆従った。その時、額田王が皇太子にさしあげた歌である。
  • 額田王ははじめ大海人皇子に婚(みあ)い十市皇女(とおちのひめみこ)を生んだが、後天智天皇に召されて宮中に侍していた。この歌は、そういう関係にある時のものである。「あかねさす」は紫の枕詞。「紫野」は染色の原料として紫草(むらさき)を栽培している野。「標野」は御料地として濫(みだ)りに人の出入を禁じた野で即ち蒲生野を指す。「野守」はその御料地の守部(もりべ)即ち番人である。
  • 一首の意は、お慕わしいあなたが柴草の群生する蒲生のこの御料地をあちこちとお歩きになって、私に御袖を振り遊ばすのを、野の番人から見られはしないでしょうか。それが不安心でございます、というのである。
  •  この「野守」に就き、或は天智天皇を申し奉るといい、或は諸臣のことだといい、皇太子の御思い人だといい、種々の取沙汰があるが、共等のことは奥に潜めて、野守は野守として大体を味う方が好い。また、「野守は見ずや君が袖ふる」をば、「立派なあなた(皇太子)の御姿を野守等よ見ないか」とうながすように解する説もある。「袖ふるとは、男にまれ女にまれ、立ありくにも道など行くにも、そのすがたの、なよくとをかしげなるをいふ」(○證)。「わが愛する皇太子がかの野をか行きかく行き袖ふりたまふ姿をば人々は見ずや。われは見るからにゑましきにとなり」(講義)等である。併し、袖振るとは、「わが振る袖を妹見つらむか」(人麿)というのでも分かるように、ただの客観的な姿ではなく、恋愛心表出のための一つの行為と解すべきである。
  •  この歌は、額田王が皇太子大海人皇子にむかい、対詠的にいっているので、渡やかな情緒に伴う、甘美な媚態をも感じ得るのである。「野守は見ずや」と強く云ったのは、一般的に云って居るようで、寧ろ皇太子に憩えているのだと解して好い。そういう強い句であるから、その句を先きに云って、「君が袖振る」 の方を後に置いた。併しその倒句は単にそれのみではなく、結句としての声調に、「袖振る」と止めた方が適切であり、また女性の語気としてもその方に直接性があるとおもうほど微妙にあらわれて居るからである。甘美な媚態云々というのには、「紫野ゆき標野ゆき」と対手の行動をこまかく云い現して、語を繰返しているところにもあらわれている。一首は平板に直線的でなく、立体的波動的であるがために、重厚な奥深い饗を持つようになった。先進の注釈書中、この歌に、大海人皇子に他に恋人があるので嫉ましいと解したり(燈・美夫君志)、或は、戯れに諭すような分子があると説いたのがあるのは(考)、一首の甘美な愬(うった)えに触れたためであろう。
  •  「袖振る」という行為の例は、「石見のや高角山の木の間より我が振る袖を妹見つらむか」(巻二・一三二)、「凡(おほ)ならばかもかも為(せ)むを恐(かしこ)みと振りたき袖を忍(しの)びてあるかも」(巻六・九六五)、「高山の岺(みね)行く鹿(しし)の友を多み袖振らず来つ忘ると念ふな」(巻十一・二四九三)などである。


【大海人皇子の歌について】
  •  右(二〇)の額田王の歌に対して皇太子(大海人皇子、天武天皇)の答えられた御歌である。
  •   一首の意は、紫の色の美しく匂うように美しい妹(おまえ)が、若しも憎いのなら、もはや他人の妻であるおまえに、かほどまでに恋する筈はないではないか。そういうあぶないことをするのも、おまえが可哀いからである、というのである。
  •  この「人妻ゆゑに」の「ゆゑに」は「人妻だからと云って」というのでなく、「人妻に由って恋う」と、「恋う」の原因をあらわすのである。「人妻ゆゑにわれ恋ひにけり」、「ものもひ痩せぬ人の子ゆゑに」、「わがゆゑにいたくなわびそ」等、これらの例万葉に甚だ多い。恋人を花に譬(たと)えたのは、「つつじ花にほえ少女、桜花さかえをとめ」(巻十三・三三〇九)等がある。
  •  この御歌の方が、額田王の歌に比して、直接で且つ強い。これはやがて女性と男性との感情表出の差別ということにもなるとおもうが、恋人をば高貴で鮮麗な紫の色にたぐえたりしながら、然かもこれだけの複雑な御心持を、直接に力づよく表わし得たのは驚くべきである。そしてその根本は心の集注と純粋ということに帰着するであろうか。自分はこれを万葉集中の傑作の一つに評価している。集中、「憎し」という語のあるものは、「憎くもあらめ」の例があり、「憎くあらなくに」、「憎からなくに」の例もある。この歌に、「憎」の語と「恋」の語と二つ入っているのも顧慮してよく、毫も調和を破っていないのは、憎い(嫌い)ということと、恋うということが調和を破っていないがためである。この贈答歌はどういう形式でなされたものか不明であるが、恋愛贈答歌には縦(たと)い切実なものでも、底に甘美なものを蔵している。ゆとりの遊びを蔵しているの止むことを得ない。なお、巻十二(二九〇九)に、「おほろかに吾し思はば人妻にありちふ妹に恋ひつつあらめや」という歌があって類似の歌として味うことが出来る。

 ちょっと思うところがあって、「万葉集」を始めから読み返して、巻第四を眺めてましたら、に次のような歌がありました。大伴坂上郎女です。

青山を横ぎる雲のいちしろく我れと笑まして人に知らゆな(688)

「歌意」
青い山をよこぎる真っ白な雲のようにはっきりと私に微笑んで人に知られないでください。

 作者の大伴坂上郎女は、万葉集全体を編集したと思われている大伴家持の奥さんのお母さんにあたるひとです。晩年は大伴一族の後見人にあたるような立場にあったひとですが、若い頃は男性遍歴も多く、才色兼備の人です。この人が詠んだ歌は数多く万葉集に入っていて、長歌も6首あるのは珍しいと言えます。ある意味では技巧的な歌が特徴の人で、例えば次のような歌があります。

来むと言ふも来ぬ時あるを来じと言ふを来むとは待たじ来じと言ふものを(527)

 さて、問題の「青山の・・・(688)」は、贈答歌と思われますが、誰に詠んだのかはわからないだけに、色々想像させられます。「私に微笑みかけないで、他の人に知られるじゃないの」というのは、実は二股かけて、うまく男を手玉に取ろうとしているようにも思える、と考えるととっても面白いですね。
 「微笑禁止!」といわれて、その通りに実行している男は「どうして僕はちゃんと恋人として認められないんだろう」と悩み続けてるんじゃないかな・・・と考えると、「しっかりしろよ!!」と背中をどやしつけたくなりますね。

 私の発想はじつはオリジナルがありまして、ある人が全く違う歌について解釈した、次の文章がもとです。私が万葉集を始めから読み直してたのも、これに似た発想の歌を探してたというわけです。
☆以下、知人の文章(改行と強調は私が変更)
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 思い出でて 哭(ね)には泣くとも いちしろく 人の知るべく 歎(なげ)かすなゆめ
  (巻十一 ・ 2604 作者不詳)
 
 「歌意」
 私のことを思い出して、ひとり忍び泣くのはかまいませんが 他の人が知るほどに大きなため息をついてはいけませんよ

     --------------

作者は女性です。
 相手は「あなたのことを思って、ひとり忍び泣いています」 なんて歌を贈ったのかね。 そこで作者は「忍び泣くのなら誰にも分からないからかまわないけど他の人に分かってしまうような大きなため息はNGですよ」 という歌で返しています。
 なかなか鋭い返歌ですわ。普通なら「忍ぶ恋の歌は切ない」なんて思うんだろうけど私なら違うことを考えちゃうなあ。だって、そんなメメしい男なら一発ギャフンと言わせてやりたいじゃないですか。そこで「ため息禁止」という、ちょっとイジワルな約束ごとを与えるんよ。忍び泣くようなヤツなら常にため息をついてる場面は容易に想像できます。
 そいつは無意識にため息をつこうとするんだけど「あの人がダメだと言ったんだから」とがんばっちゃうワケですよ。で、だんだんと顔色が蒼ざめてくる。・・・こんな場面を考えるのって性格が悪いのかね。アハハハ

 ある人が(2651)の歌について「何人かが集まって歌会のようなものがあった時のものだと思うんよ。 作者は妻を愛しているんだけど照れくさくてなかなかそれが言えないんじゃないのかなあ。そこで彼はその機会をずっと待ってたわけですわ。歌会でこんな歌を詠って、妻を驚かす姿が想像できちゃいます。 」という説を公表されまして、これがとっても面白かったんで、万葉集ではほかに己が妻(夫)のことをどう歌ってるのか調べてみました。結果は長歌3首を含めて11首ありました。そのうち夫を詠んだものは2首。案外と妻(夫)礼賛というのは少ないですね。鳥の番を見てしみじみと歌ったものが3種と類型的に多いようですが、あるいは美人に惑って妻を離縁する馬鹿者が登場したりと様々です。



巻第四(0546)笠朝臣金村
三香の原 旅の宿りに 玉桙の 道の行き逢ひに 天雲の 外のみ見つつ 言問はむ よしのなければ 心のみ 咽せつつあるに 天地の 神言寄せて 敷栲の 衣手交へて 己妻と 頼める今夜 秋の夜の 百夜の長さ ありこせぬかも

これは、「三香原の離宮に幸したまひし時に、娘子(をとめ)を得て作りし歌」というので、本当の妻じゃないし、ちょっとけしからん状況です。-

巻第七(1165)羈旅作
夕なぎにあさりする鶴潮満てば沖波高み己妻呼ばふ
巻第七(1198))羈旅作

あさりすと礒に棲む鶴明けされば浜風寒み己妻呼ぶも

鶴と餌あさりと夫婦はセットで考えてたみたいですね。後ろのほうに、同じ状況を鴨を見て歌ったものもあります。

巻第九(1738)高橋虫麻呂歌集より
しなが鳥 安房に継ぎたる 梓弓 周淮の珠名は 胸別けの 広き我妹 腰細の すがる娘子の その顔の きらきらしきに 花のごと 笑みて立てれば 玉桙の 道行く人は おのが行く 道は行かずて 呼ばなくに 門に至りぬ さし並ぶ 隣の君は あらかじめ 己妻離(か)れて 乞はなくに 鍵さへ奉る 人皆の かく惑へれば たちしなひ 寄りてぞ妹は たはれてありける

これは「自分の妻と離婚して」まで美人にくるう情けない話です。

巻第十(2004)
己夫にともしき子らは泊てむ津の荒礒(ありそ)巻きて寝む君待ちかてに

七夕98首のうちの一首です。織姫が牽牛を天の川のほとりで待ちきれずに寝ているってわけです。

巻第十(2005)
天地と別れし時ゆ己が妻しかぞ年にある秋待つ我れは

前と同じ。

巻第十一(2651)
難波人葦火焚く屋の煤してあれどおのが妻こそ常めづらしき

これが問題の歌です。冒頭に書きましたように私の知人が「自分の妻を常々愛らしいと思ってたのを、ある歌会でこの歌で披露したと」いう説を唱えています。こんな喩えをされた奥さんがよろこんだかどうか疑問だとの声も多数・・・。

巻第十二(3091)寄物陳思
鴨すらもおのが妻どちあさりして後るる間に恋ふといふものを

1165・1198と同工異曲です。鴨などの鳥が餌アサリしているのを見ると妻を思うという嗜好パターンで歌を詠むんですね。

巻第十三(3314)
つぎねふ 山背道を 人夫の 馬より行くに 己夫し 徒歩より行けば 見るごとに 音のみし泣かゆ そこ思ふに 心し痛し たらちねの 母が形見と 我が持てる まそみ鏡に 蜻蛉領巾 負ひ並め持ちて 馬買へ我が背

問答歌18首のひとつ。自分の夫が馬にも乗らず歩いて行くので難儀していないかと心配している。母の形見の鏡やきれいなスカーフはいらないから馬を買いなさいと言っています。妻は色々と世話を焼いて心配してくれるんですよね。

巻第十四(3571)
己妻を人の里に置きおほほしく見つつぞ来ぬるこの道の間

防人の歌です。妻を置いてきた心情をそのまま素朴に詠ったものです。

巻第十六(3808)
住吉の小集楽(おつめ)に出でてうつつにもおの妻すらを鏡と見つも

これは手放しで妻を賛嘆しています。万葉全体ではこれは珍しいんで、ちょっと照れも見えますかね。

☆巻第十五は随行記者の記録?
 万葉集の各巻の成り立ちはそれぞれでしょうが、いずれにせよ一気に出来上がったものではないにしろ、何らかの形で一まとまりに書き付けられてるか記憶されていたものが一巻を形成しているのは疑いないでしょう。あるものは宮中の儀式や宴会などで伝統的に用いられていた歌謡。あるものは誰かが採集して書きとめた民謡。あるものは贈答歌をまとめて保存したもの。
 そして、巻第十五は、遣新羅使人のなかの随行記者のような立場の人が、壮行会や宴会で歌われたものを記録したものでしょう。だから、家族の送別の歌や古歌が記録されているわけです。
 私が以前この巻を紹介した文章を読み返すと、「145首もあるのですが、どれも意気の上がらない歌です」とだけ書き、これでは巻第十五の前半を紹介するには全く足りないので、もう少し紹介したいと思います。
君が行く海辺の宿に霧立たば吾(あ)が立ち嘆く息と知りませ(3580)
秋さらば相見むものをなにしかも霧に立つべく嘆きしまさむ(3581)
 なんとも言えない私の好きな万葉らしさです。「新羅に着くまでの浦々で立ち込める霧を見たら、私の嘆きの息だと思ってください」と、激情を語るわけじゃなく、淡々と霧を詠んでいるだけなのに、どちらかというと技巧的な歌が好きな私も、この歌の心情には打たれます。

沖つ風いたく吹きせば我妹子(わぎもこ)が嘆きの霧に飽かましものを(3616)
 ここには、霧を「嘆きの息」との見立てがあります。ちょうど今の季節は、北陸地方では霧や雲がもくもくと沸き立って、山の精が湧き出てきているように見えますが、いつも自然を眺めていた万葉人には、霧に人の息を連想するのは自然なことだったと思えます。
巻第十五ではありませんが、私の故郷の福岡で山上憶良が歌った挽歌におなじく嘆きの息と霧を
歌ったものがあります。

大野山霧立ち渡る我が嘆く息嘯(おきそ)の風に霧立ち渡る(799

 「嘆き」と「霧」はいつも並べて歌われるのは、とてもよくわかります。

☆霧・雲は人の魂の象徴
 残念ながら私がいつも頼りにする「たのしい万葉集」には「朝霧」はありますが、「霧」の項目がありません。しかし、雲の項目があって、そこにはこのように書かれています。

万葉集の歌に詠まれる「雲」は、およそ200首もあります。


「雲」そのものの歌も多いのですが、雲と人の死や魂とは関係が深いようで、死を悼む歌も非常に多く載っています。亡くなることを意味する「雲隠る」という言葉が詠み込まれたものも、以下のリストには含まれています。

とのこと、我が意を得たりです
☆巻第十五・十六が面白い
 万葉集を「巻ごとに読む」やりかたを始めてから、面白さが変わってきました。ここ数十年続けていたのは(続けていたはウソですが(^_^;))「秀歌ごとに読む」で、斉藤茂吉さんの「万葉秀歌」(岩波書店上下)をテキストに読んでいたから自然そうなったんです。当時としては、私にはこれしか選択肢がなかったんでしょうが、結果は最悪で、万葉集に対する興味を完全に失ってしまうことになりました。
 今回はNHKの古典講読をCD化したものを使って、犬養孝さんの朗唱を聞きながら読み進んでいるので、自分の興味のままに「あ、面白い!」と思ったら「新日本古典文学大系」(岩波書店)の万葉集に立ち戻って丹念に読んでいます。
 万葉集の巻物は年代ごとに区切られているわけじゃなくて、それぞれに違った歌集だと思ったほうがいいくらいのものです。ある意味では歌集ではないものも混じっていると言ってもいいかも知れません。それが巻15、16で、ゴシップ、社会面、みたいなものです。巻第十七以降の家持歌日記を加える前の原型を作る際に継ぎ足した部分じゃないでしょうか。

☆巻第十五は二つの部分
 巻15の方は前半が遣新羅使の話で、これは恐らく当時話題になっただろう外交の大失敗でしょう。肝心の新羅との話は全く出てこずに、往きの嘆きが主で、帰りは大使が死んだこと(自殺説があります)が出てくるくらいで歌もまばらです。
 後半は中臣朝臣宅守と狭野弟上娘子の贈答歌ですが、これも当時の有名なゴシップだったんでしょう、何の解説もなしの贈答歌だけで当時の人はわかったんだなという代物です。ある説によると、狭野弟上娘子の歌だけが流布したもので、中臣朝臣宅守の歌は付け足しただけだろうとのことですが、わたしもその考え方の方が納得できます。(この部分が越前市の味真野が出てくるので、これだけで万葉館が建てられているようなものです。お金の使い方として如何なものでしょうか。紫式部と越前市のかすかな縁だけで公園が一つできてるのといい勝負ですけどね)

☆巻第十六は種々雑多
 巻16は「愚」がテーマの人間味あふれるものです。このなかに、例の「筑前国志賀の白水郎の歌十首」がありますから、香住ケ丘に住んで、志賀島はサイクリングコースだった私には興味がつきません。ところが、斉藤茂吉さんの新書は6ページ、中西進さんの「万葉の秀歌」でも22ページしか割いていないのに、「新日本古典文学大系」では目録まで入れると61ページある巻ですから、まさに「秀歌」をキーにした読み方では面白さがわからない部分です。やせた人をコケにする歌もいくつか入っていますが、

石麻呂に我物申す 夏痩せに良しというものそ 鰻捕りめせ

というのは、夏の栄養に鰻がいいとは奈良時代以前から言っていた証左として、とっても面白い。誰かが「日本では古来鰻は夏には食べなかったのに平賀源内の宣伝のおかげで江戸時代になって食べ始めたのだ」なんて知ったかぶりしてました。鰻屋のサイトかなにかに書いてあったんだったかな。確かに万葉集の16巻なんか誰も見ないから、昔から夏に食してたのは忘れられたんですね。

 28日(土)のドライブ報告、その3です。味真野で万葉の雰囲気を味わって平山郁夫展で風景画の素晴らしいのを見たために、松尾芭蕉じゃありませんが漫ろ神(そぞろがみ)に憑かれて、富山まで出かけてしまいました。出発が昼過ぎだったので、実際に歌枕を巡ることは考えてなくて、最初から雰囲気だけ味わってくるつもりでした。伏木というのは、富山県高岡市の一部で港町です。ここに越中の国庁があったんですね。

 万葉の漫ろ神に憑かれると、なぜ富山かというと、万葉集を最終的に今の20巻本に仕立てたと推定されている大伴家持が、最初に地方赴任したところであることから、ここを舞台にした歌が非常に万葉集に多いということなんです。大伴家持の時代は、万葉集を四つに時代区分した第四期にあたり、一般的には衰退の時代と言われ、確かに百花繚乱の観がある第三期などと比べると、見劣りするのかも知れません。だけど、第17巻以降のいわゆる家持歌日記にも私の好みの魅力的な歌が沢山あります。

 春の苑(その) 紅にほふ桃の花 下照る道に 出でたつ少女(おとめ)
というのがあります。あの樹下美人図のような光景を思い浮かべますね。

で、立ち寄ったのが高岡市万葉歴史館。ここであるていど知識を仕入れてから少しでも散策しようとしたのですが、実は全く現金の持ち合わせがなく、入館できなかったというお粗末。

この札を見ると、万葉歴史館が活発に活動していることが想像できますね。

 それから郵便局のATMを求める意味もあって氷見の知人の家を訪ねました。そこで教えられたのが藤波神社。国庁の役人が布勢の水海に遊覧したときの歌が4199から四首並んでいますが、その縁の場所なのは、帰ってから「万葉の秀歌」を読み返して初めて知りました。
 来春にはあらためて訪問したいものだと思います。

 28日(土)に、秋晴れの天気に誘われて味真野を訪れたドライブのレポートその2です。味真野神社の時にも書きましたが、従来は謡曲「花筐(はながたみ)」の舞台としてのみ紹介されていました。そのために、継体天皇の像が大きく拵えてあります。
 駐車場に車を停めて、右のほうに行くと写真ではわかりにくいかも知れませんが、木の向こうに継体天皇と照日の前の二人の像が見えます。
☆花筐像

 引き返して正面に入ると立派な正倉院みたいな建物が見えますが、これが万葉館です。入場は無料。ボランティアらしい案内のおじさんが居ますので、狭野弟上娘子の話をまだ知らなければ語ってくれます。
☆万葉館

中に入ると、このように人形を使って贈答歌を聞かせてくれます。
☆贈答歌を歌う人形

前に立ち止まると蛍光色で歌を見せてくれるディスプレイもありました。

 面白かったのは、若い人の和歌のコンテストの16年度の優秀賞。「携帯は君との距離を繰り畳む」って歌。ちゃんと狭野弟上娘子の歌を踏まえているところがいい、というか、審査員の気を引くポイントがわかってるという所が。(携帯はまさか継体を踏まえてるわけじゃないよね)
☆継体は君との距離を繰り畳む薔薇が咲いたと写真で送ろう

 表に出ると、池を挟んで向かい合わせに中臣朝臣宅守と狭野弟上娘子の歌碑が立っています。
☆中臣朝臣宅守歌碑

☆狭野弟上娘子歌碑

 昨日のドライブ報告、その1です。午前中に味真野(あじまの)に行きました。味真野は万葉集巻第15で中臣朝臣宅守と狭野弟上娘子の贈答歌で有名な歌枕なのですが、その後は全く無視されていて、当然、芭蕉翁も(単に知らなかったんでしょうが)無視して日野山だけを詠みちらして通り過ぎてしまいました。芭蕉は奥の細道を書く前に、かなり綿密に下調べして(行ったかどうかは別として)俳句にしていますから、江戸時代には万葉集はほとんど忘れられていたのでしょうね。(その後の万葉集見直しの機運については、興味を持って調べてみたいと思っています)
 その代わり、謡曲はかなり嗜まれていて「花筐(はながたみ)」で、継体天皇の物語が味真野を舞台として創作されたため、つい最近まで地元でも継体天皇がらみのものしかありませんでした。下の写真は味真野神社の入り口ですが、このとおり継体天皇のことしか書いてありませ。

境内にあるのも「花筐」の石碑です。

 境内から隣接地の野外ステージが見えますが、その向こうに万葉館があり、中臣朝臣宅守や狭野弟上娘子の贈答歌が紹介されています。内容は次回に。

 万葉集は全20巻の巻物です。今、私が見ている万葉集は全四冊の冊子ですが、昔の人は巻物です。万葉秀歌集みたいなもので読み始めても、気に入った巻をじっくり読むのも面白いと思います。そこで、私が今、一番気になって繰り返し読んでいるのは巻第十五です。大きく二つに分かれていて、始めは遣新羅使人(けんしらぎしじん)の歌、後ろは中臣朝臣宅守(なかとみのあそみやかもり)と狭野弟上娘子(さののおとがみのをとめ)の贈答歌です。
 なんといっても、遣新羅使人は「武庫の浦」を出て「佐婆の海中」で遭難し、「筑紫の館」に至りと、福岡(筑紫)で生まれ山口(佐婆)に学び兵庫(武庫)で社会人生活に入った私に縁の地名が出てくるので、とても印象深いのです。
 「引津の亭(ひきつのとまり)」などという地名をなつかしく感じる人は、福岡であってもざらにはいないでしょう。私は糸島郡をテリトリーに4年間も営業したので、引津湾の光景が目に浮かぶのです。
 肝心の歌ですが3578から3722までですから、145首もあるのですが、どれも意気の上がらない歌ばかりです。
例えば
もみち葉の散りなむ山に宿りぬる君を待つらむ人しかなしも
 ともあれ、当時の航海術だと瀬戸内海で遭難するんだから大変です。この遣新羅使人も所期の目的も達することができず、帰途に大使が対馬で亡くなります。
 つづくのは贈答歌ですが、一番有名なのは狭野弟上娘子の次の歌です。
君が行く道の長手を繰り畳ね焼き滅ぼさむ天の火もがも
 この情熱的な歌はあの額田王の「あかねさす・・・」とならんで、好きな歌の筆頭に上げられることが多いと犬養孝先生がCDの講義で言ってました。この贈答歌が印象的なのは中臣朝臣宅守が越前に流されて、仲を引き裂かれているあいだの歌だからです。しかも、越前というのは、私の今住んでいる武生だから、なおさら私にとっては印象深いものなのです。こんど、歌碑を味真野に行って見てきます。ちょうど紅葉がきれいでしょう。
 実は一昨年の11月に味真野に紅葉狩りに行って中臣宅守の歌碑をみてきたのですが、そのときは「有名じゃない・・」と感想を書き残しました。有名じゃないんじゃなくて、私が知らないだけでした。万葉集の中でも魅力的な贈答歌です。

万葉歌碑

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家持の歌

われのみし聞けば寂しもほととぎす丹生の山辺にいゆき鳴かにも(巻19・4178 家持)

 今日は昼過ぎから万葉歌碑をたずねたくなって、手近なところに行きました。越前市の大虫あたりにある万葉歌碑です。初句は、私の持っている新日本古典文学大系によると「ひとりのみ」となっていますが、「吾耳」という表記ですからどちらともいえないでしょうね。

 この歌は家持が富山に居て詠んだ歌ですが、丹生の山辺というのは武生のあたりのことです。というのは、越前国掾となって富山(越中)から越前(福井)に転出した大伴池主に宛てた歌だからです。


☆長歌(巻19・4177 家持)
 万葉集には上の歌にさきだって、つぎの長歌が掲載されています。

我が背子と 手携はりて 明けくれば 出で立ち向ひ 夕されば 振り放け見つつ 思ひ延べ 見なぎし山に 八つ峰には 霞たなびき 谷辺には 椿花咲き うら悲し 春し過ぐれば 霍公鳥 いやしき鳴きぬ 独りのみ 聞けば寂しも 君と我れと 隔てて恋ふる 砺波山 飛び越え行きて 明け立たば 松のさ枝に 夕さらば 月に向ひて あやめぐさ 玉貫くまでに 鳴き響め 安寐寝しめず 君を悩ませ

残念ながら、有名な歌ではありませんが、ちょっと万葉の気分にひたってきました。歌碑は新しくて田んぼの中の新興住宅地の児童公園の中にあり、風情も何もありませんけど、そこは想像力で克服できました。

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