お父さん、単身生活を満喫でタグ「日経新聞」が付けられているもの
☆今朝の日経新聞
今朝の日経新聞を読んで感想。「私の履歴書」の青木昌彦(スタンフォード大学名誉教授)さんは、最近のこの欄には珍しく刺激的で面白い。青木さんの著書にも興味が沸いたので、図書館で借りることにしました。
図書館については残念ながら越前市(旧武生市)より鯖江市のほうが充実しているので、そちらで借りることにしました。鯖江はなかなか進取の気性のあるところで、文化面が充実しているのは素晴らしい。
「私の履歴書」の隣の欄が「文化」で、今日は来年が源氏物語の千年紀だとして盛んに行われ始めたシンポジウムなどの話題です。
☆ガッカリ
どちらも、内容は皆さん興味ないでしょうから、詳しくは言いませんが、感じたのは「日本にはちょっとガッカリ」ってことです。青木さんのほうは、例のごとく流出した頭脳ってとこと経済大国と言われながら所詮世界の潮流の外にある日本というのを感じさせられたこと。源氏のほうは、日本人は評価していないのに、外人が持ち上げると、俄然張り切るいつものパターンが見えて、これもガッカリ。源氏ははっきり言ってウェイリーやウルフが言うような文学じゃありません。「もののけとプレイボーイの物語」というのが真相、それ以上でも以下でもありません。西洋人が見ると何かありそうに見えるだけです。
ここのとこは、誰か平和賞を貰った人の「モッタイナイ」の誤解みたいなものです。日本人にモッタイナイなんていう独自の文化はありません。あれば赤福をあれだけ叩けるはずもありませんし、もともとお菓子を新鮮さだけで売ったりしません。
どっちにしても、朝からガッカリな気分は面白くないので散髪と洗車とドライブに行くことにします。
奄美歌掛け島唄の原点
◇庶民の喜怒哀楽託す即興遊び、再興に向けて活動◇
山 田 薫
「春秋」にもあるように、漱石が英国留学している間は精神的に参っていたこととか経済的にも困窮していたことも夙(つと)に知られています。恐らく実質は「行ったことがある」というだけの現在の語学留学生と同じかそれ以下の収穫しかなかったでしょうが、外国帰りというだけで箔がついた時代のことですから、漱石がその後の人生のパスポートを手にしたことは間違いありません。
ちょっと不満を持ったついでに言うと、私の偏見でしょうが、どうも日本の歴史研究家にはパワーがないような気がします。まだまだこういう史料があるのに、調べがついていないんじゃないかな。考古学は旧石器の件で、権威は失墜してますけど、隣接業界にも人材がないんだろうなとしか思えません。口ばっかり達者なのはよく見かけますけどね。お坊さんなんかと一緒に講演ばっかりしてないで、ちゃんとやることやってなきゃ日本の過去がますますわからなくなる。
今日の「サンデーニッケイα」のセカンドステージ面で、面白そうなコラムが始まりました。「日記をのぞく」長実房英俊「多門院日記」というものです。
☆私の知りたいこと
この日記は、猿沢の池の畔にあった興福寺の子院に住んでいた学僧の手になるものだそうです。この類のものでは、文庫本になっている「鸚鵡籠中記」を読んだことがありますが、文学としての日記とは違い、とても面白く読めます。私が今とても知りたいのは、出版業発生以前の文学の出版と流通の実際のありかたです。この多門院日記でも、江戸初期ですから、印刷による出版は既に始まっているのでしょうが、実際は書写による流通が大きかったはずです。そのときに、どういうつもりで他人が書いたものを読んだり書き写したり他人に譲ったり買い入れたりしたのか。物語とは、随筆とは、歌集とはどのような読まれ方をしたのか、学僧ですから、お役人であった鸚鵡籠中記の筆者 朝日重章とは違った事実が出てくるのではないかとワクワクしながら次回を待つことにします。
日経新聞「私の履歴書」は暦月サイクルなので、行天さんは今日でおしまい。面白いかどうかと、自分の好みの人物であるかどうかは無関係。だから、人物論を抜きにすれば行天さんの履歴書は最近のものの中では抜群の面白さでした。人からどう思われようと書きたいように書いたという面が見えて(本当は彼も認めるように脚色はされているでしょうが)、私の好奇心は満たされました。
ガッカリというのは、完全に好みの問題で「坊主遊び」をする人が嫌いってだけです。行天さんは自分でも素直に認めているように、仕事が趣味で、それを抜いたら何も残らない人です。だから自分の人生に懐疑的になったときに理屈抜きの指針を得たくなるんですね。そういう人で社会的地位のあるひとは高名な僧との付き合いを始めたりします。レベルの低い人は新興宗教に走ります。それで「ガッカリ」するのが私。
「おれはそんな話、聞いてないよ」この一言は小和田外務次官から発せられたもので、政府高官の訪中が自粛されている中、大蔵省顧問だった行天さんが夫婦で中国銀行に招待されたときに行天さんから相談されたときのものです。知らぬフリをするから勝手にしろと言われて、行天さんは小和田さんの大物ぶりに感激します。つまり、よくも悪くも行天さんはお役人さんだということです。
通貨マフィアの欧米諸国のメンバーは、これまたよくも悪くも「しかるべき階層」の人間であり、こういう場合、自らの判断で動けるものです。つまり、自分のお父さんだったらどうするか、おじいさんだったらこう言うだろう、あるいは自分の支持者だったらこう言う、ということが、自らの判断の土台になっている。行天さんは役人あがりのために、自分での判断はできない。だから円高を恐れてバブルに突っ走る日本を止めることはとても出来なかった。それが、この一言に象徴されます。
お役人の世界で、社会保険庁の不正でも、今問題になっている高校の必須科目の件でも、いじめ自殺問題でも、内々に現場から照会された中央の担当者の口から「この件は聞いてないことに・・・」という言葉が何度発せられたでしょう。
ただ、このことで私は憤ってみせたりはしません。人間と人間社会の本質を見せられて納得するのみです。
昨日の日経新聞文化欄が面白かった。このコーナーは毎回興味深い記事があります。文化人の随筆ってことが多いような気もしますが、軽い読み物として読み流せるものもあります。
今回は「気鋭の国家論 冷戦後を問う」と題していまして、若い人の国家論を取り上げていました。列挙すると、萱野稔人(35)「国家とは何か」、酒井隆史(40)「暴力の哲学」、高橋哲哉(49)「国家と犠牲」、稲葉振一郎(41)「『資本』論」
年齢を見ただけでも若い人たちであることが見て取れます。かいつまんで紹介してありますが、それを更にかいつまむと、訳がわからなくなりますが、「暴力が社会の中で行使されるあり方の一つとして国家は存在している」など、素直に肯定できる言葉です。「暴力」「所有権」というのがキーワードですが、その通りでしょう。この記事を見落とした方は是非読んでください。
日本の思想家って、思想を難解に語ることによって身を守ろうとする、胡散臭いのばかりだと思っていますが、若い人は自分の言葉で語ることが出来るようになって、虎の威を借る狐から抜け出てきているようです。
哲学者って、今でもいるんですよね。哲学ってのは、宗教が脱落していったときに、科学側に踏みとどまった原初の科学だと思っていますが、これらの哲学者の著書をながめると、現在でも大いに存在価値がありそうです。

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