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 ノルマン・コンクェスト後の王室のイングランド化について書きましたが、そのままノルマンディー公国と分裂して現在の形の英国になったわけではなく、ノルマン朝断絶後にプランタジネット朝のジョン欠地王までに揺り戻しとも言える現象がありました。

先ず、アンジュー家に王権が移った経緯ですが・・・(アンジュー朝は、その言い伝えからエニシダ、つまりプランタジネット朝といいます)。


さて、九州から帰ってきて、早速英国史に取り組みます。


 ノルマンディー公庶子ギョームがウィリアム征服王となり、ノルマン・コンクェストが成就しましたが、その後どうなったでしょう。

イングランド王ウィリアム一世は、ノルマンディー公ギョームとしての立場も持ち続け、おそらく彼の最終的な大望であっただろう、フランス王との対抗力もかなり持ち、いつもフランス王との戦闘を続けていました。
 フランス王との最後の戦闘に赴いてマントを奪回した直後に事故で致命傷を負って亡くなりました。
 そして領地は長子のロベールにノルマンディーを、そしてイングランドを同じ名前の次男ウィリアムに譲ります。


 ノルマン・コンクェストは、今日使われている英語に大きな影響を及ぼしました。ノルマン人のフランス語の単語が輸入されたということもありますが、それより、一時的に英語が公用語に全く使われなくなった影響です。

 昨日のエントリーに、バイユー・タペストリーのことを書きましたが、なぜフランスのバイユーの司教がヘイスティングズの戦いの場面をタペストリーに描かせたのでしょうか。その答えのもっとも単純なものは、「バイユーの司教はウィリアム征服王の異母兄弟であったから」です。それだけじゃありません。

 
 ヘイスティングズとバトルと聞いて、「ポアロ」だ!という人は、かなりのクリスティー好きでしょう。アガサ・クリスティーのポアロものに登場する、ポアロの助手とスコットランドヤードの警視の名前ですが、実は、ノルマン・コンクェスト(1066年)のヘイスティングズの戦いが本当に行われたのは「バトル」だということなんです。おそらく、クリスティーはこの事実を踏まえてるんだと思います。


 ノルマン・コンクェストを実行したウィリアム征服王(William the Conqueror)について、少し書いておきます。

彼はなぜイングランド王になろうという野望を持ったのでしょう

  •  ひとつには、彼は庶子ギョーム(Guillaume le Bâtard) と呼ばれたように、皮革商の娘アルレッタとロベール公の間に生まれた私生児です。その生まれから、自分自身で名誉を獲得したいと念じたことは想像に難くありません。
  •  もうひとつは、イングランド王がほとんどノルマン人といってもいいくらいのエドワードであったことです。
  •  さらに、イングランドはフランスなどとは違い、まだ騎馬戦はなく戦闘方法も未熟であり、その割にはデーンゲルドといわれるバイキングに献納するための資金を集める収税方法が発達しており、王室は豊かだったことなどの情報があったのでしょう。
  •  そして、フランス王と対等に対抗する力をつけたいというのが最終的な野望だったのだと思います。

 当時のイングランドは状況によっては、デンマークに乗っ取られることも考えられるため、実行の機会を狙っていたのです。

 いよいよイングランド王エドワードの死でその機会が訪れたとき、ギョームはエドワードの賢人会議が王位継承を決定したハロルドから王座を奪うために、具体的にはどうしたのでしょう。

大義名分は三つ。ひとつは「エドワードが王位継承を約束した」もうひとつは「ローマ法王もギョームを支持した」、さら「ハロルドはギョームに臣従すると誓約した」というものです。
それぞれを詳しく見てみると・・・・。

 エリザベス二世が日本を訪問したときの皇室との食事の席で、現在の英国王室の始まりを1066年だと言ったそうです。私がアンドレ・モロワの英国史を読んで知りたかったことの一つが「なぜ現在の英国王室は1066年のノルマン・コンクェスト、つまりウィリアム征服王(William the Conqueror)を自らの始祖とするのか」です。

  日本の皇室のように、古ければ古いほどいいという考え方だったら、少なくともサクソン王朝を始祖するでしょうし、あるいはデーン系を始祖としようとするならノルマン公の始祖ロロンあたりまで遡るのは間違いありません。今 みたいに神武天皇を始祖とする勢いだったら北欧神話の中にいくらでも見つかるでしょうけど。
 今のところ、確実な記述はありませんが、血統そのものというよりも、支配者層つまり王室支持者の入れ替 えがあったので、ここが現在の英国王室の始まりとするというのが答えかなと思っています。

フランスのノルマンディー公に征服されるに至るまでのイングランドの状況について、概説いたしました。

一方、征服する側がどういう状況であったのかを触れたいと思います。

バイキングの来襲に悩み、一時はバイキングの王に統治を任せたこともあるイングランドでしたが、フランスも似た状況にあったのです。対応法は違いました。

AD911 という年にシャルル単純王(le Simple)は、サン・クレール・シュル・エプト(le traité de Saint-Clair-sur-Epte)の口頭契約で、バイキング(デーン人)のロロン(Rollon)にノルマンディー公領を与えたのです。これは クヌートのイングランド王就任の100年前にあたります。

このやりかたは成功し、イングランドにおけるバイキングとは異なり、デーン人をフランス化することに成功し、「ノルマンディー公の平和」と呼ばれました。

 100年後には東アングリアの同一の種族であるデーン人までがノルマンのデーン人のことを「フランス人」と呼ぶほどになり、言葉もフランス語しか喋れなくなり、首都ルーアンではデーン語を学ぶことさえ出来なくなっていました。

イングランドとノルマンディーの大きな違いはデーン人の引き入れ方が、合議で盟主としてデーン人の王を祭り上げたイングランド、上から地方の一領主として任命したフランス。

この違いは後々盟主を入れ替えながら決定的な政治体制の入れ替えをしなかったイングランドと、革命で政治体制が崩壊したフランスの違いまで引きずります。


 数日前に、ノルマンコンケストまでの英国の歴史の最後「デーン人(バイキング)の侵入」を書きました。このバイキング来襲はイングランドをほぼ制圧していたサクソン人を初めとするゲルマン系の人たちにどういう影響を与えたかを考えて見ます。

封建制度の成立と、国内対立の緩和
 その直接の結果として、サクソン人支配のイングランドに「職業的軍人階級の形成を促した」というのが、一つ目。この軍人階級を養うために王は領地を与えます。つまり封建制度が成立したのです。
二つ目はまた、諸王国間の争いを緩和させたのです。それにより7王国時代を経てデーン人に席巻されたイングランドのサクソン人の地域をアルフレッド大王が統治することになります。

 この時にはイングランド王はウィタン(Witan)「賢人会議」によって「選出」されたのであって、血筋によって選ばれたのではありません。既にこのころに、英国議会の萌芽があるのは注目すべきです。


 ローマ帝国はブリタニアの支配権をだんだんと失うのと平行してキリスト教化されていきました。アングロ・サクソンからローマ人が追放された5世紀(418年)の前の世紀(392年)には、とうとうキリスト教がローマ国教となります。
 ケルト人の地域までほぼキリスト教化されていたブリタニアですが、サクソン人によってイングランドからキリスト教が駆逐されます。

  その後、イングランドのサクソン人(とスコットランドのケルト人)は、じわじわとアイルランドとローマから再度キリスト教化されていったのですが、象徴的 な出来事がローマ法王グレゴリウス一世から派遣されてケントの首都カンタベリーに行き大司教となったアウグスティヌスです。

 そのアウグスティヌスが600年に法王に送った諮問書が残っているところが凄いところですが、その内容は・・・。

司教は部下の僧侶に対し、如何に振舞うべきや
また信徒の寄進物はどういう具合に頒つべきや
信徒の家族同士の結婚は何等親まで許さるべきや
また男子がその継母と結婚するは適法なりや
懐妊中の女に洗礼を施して可なりや
産婦の教会に来るは分娩後いくばくの時よりなすべきや
嬰児は誕生後幾日にして洗礼を受け得るや
妻は出産後幾日にして夫との肉体的関係を許さるべきや

右は、礼にならわざるイングランド国民の知るを要するすべてなり


だそうです。

その後、現代にいたるまで、イングランドの大司教座はカンタベリーにあるわけです。
 アメリカ英語にスローガンというのがありますが、これは英国の先住民族であるケルト人の言葉で、「戦闘の雄叫び」から来ているそうです。英語はアングロ・ サクソンなどのゲルマン語が母体になっているとは言いますが、なかにケルト語由来の言葉も少しずつは混じっています。ケルト語由来の言葉も先住民から直接 来たもの、スローガンなどのようにあとでもたらされたものなど様々です。

 英国に興味を持って以来、1066年のノルマンコンケスト以来、英国の民衆はどういう積りで外国人に統治されていたのか興味を持ちましたが、それ以前に、英国はもっと重層的な民族構成になっていますから、それを整理したいと思いました。

 今回はノルマン人の来襲までの出来事を書きましたが、面白いエピソードを何回かに渡ってご紹介することで、私も記憶に残したいと思います。

  1. 石器時代人
     英国は日本列島と同じく、元々はヨーロッパ大陸と陸続きでテムズはラインに注いでいましたが、大陸ときりはなされた あとも石器時代には人は棲んでいました。

  2. リベリア人
     その後ストーンヘンジなどの巨石文化を持って大陸から来た人はスペイン人というわけではないようですがリベリア人と呼ばれています。

  3. ケルト人
     紀元前6~4世紀に幾波にもわかれて大陸から押し寄せたのがケルト人です。この民族は放牧をしていたようで、明確な国家を樹立するような文化はもたず、氏族間の争いが絶えなかったようです。
    • 第一波はゲール人で、スコットランドのハイランド地方やアイルランドにゲール語を残す。
    • 第二波はブリトン人で、ウェールズやフランスのブルターニュに言語を残す。

  4. ローマ人 
    • BC53、54カエサルの来襲
       有名なカエサルによる来襲ですが、最初は彼の報告にかかわらず失敗に終わっています。BC54に再度来襲し、このときには朝貢の約束を勝ち取りますが、BC52以降は停止します。
    • AD43クラディウスによる征服
        ローマによる占領は「人種の拡張ではなく文化の拡張」であった。つまり、ごく少数のローマの兵士(これも外人が多い)による征服であるので、現地の女性と結婚し同化していきました。

  5. サクソン人(アングル人・ユート人)の侵入
     もともとは、北部からのピクト族、スコット族(ともにケルト人)の侵入に耐えられなくなったローマがAD5世紀ごろにサクソン人からなる援軍を頼んだ のだが、彼らに代償として領地をあたえたのが切っ掛けでつぎつぎにサクソン人を呼び入れられてしまい、ついにはローマ人は追放されてしまった。

  6. デーン人(バイキング)の侵入
     AD787年に初めて3隻の北欧人の舟が来襲した。この来襲は人種的な変化はもたらさなかったが、外来の危機に対応するためにゲルマン人の組織を強固にする働きがあった。

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